安倍内閣「打倒」を掲げて街頭に出よう

[弁護士 佐藤真理]

 半世紀以上にわたり、集団的自衛権の行使は「憲法上許されない」としてきた政府が、これからは「憲法上許され、行使できる」と閣議決定による解釈改憲を7月1日にも強行しようとしています。しかも、「解釈の整理、一部変更」であって、「解釈改憲」ではないなどと強弁しています。朝日新聞社説(6月28日)が「集団的自衛権 ごまかしが過ぎる」と批判しているのも当然です。

 5月15日、安倍首相の私的諮問機関に過ぎない「安保法制懇」が提出した報告書では、集団的自衛権の全面解禁を打ち出し、多国籍軍参加に道を開く国連の集団安全保障措置に参加しての武力行使にも憲法9条の制約はないなどと提言しました。
 安倍首相は当初、この提言を丸のみするのでなく、「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争のような戦闘には参加しない」、集団的自衛権の限定的行使を「検討・研究」するなどと述べていました。

 自民・公明の密室での与党協議の中で、集団的自衛権の行使容認が合意されました。日本に対する武力攻撃がなくても、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある時には、集団的自衛権の行使を認めるというのです。「明白な危険」は、「政府がすべての情報を総合して判断する」ということですから、政府の裁量でいくらでも行使の範囲が拡大され、限定・歯止めはありません。その上、「すべての情報」は、特定秘密とされ、国会も国民も知ることができないでしょう。

 かつて、国民は、目・耳・口をふさがれて、アジアへの侵略戦争を「アジア解放の聖戦」などと欺かれて、無謀な侵略戦争に駆り出され、多大の犠牲をうんだ悪夢が想起されなす。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意した」憲法が壊されるという重大な事態に直面しています。

 閣議決定には、集団的安全保障での武力行使は記載されないようですが、政府が国会質疑用にまとめた「想定問答集」では、多国籍軍参加に道を開く集団安全保障による武力行使も、「憲法上、許容される」場合があると明記しています。安倍首相らがめざすのは、再び「戦争する国」、軍事大国への道です。
 憲法解釈を180度ひっくりかえして「海外で戦争する国」への大転換を、国会のまともな審議もなく、与党だけの密室協議で一内閣の閣議決定で強行するのは、憲法破壊のクーデターというべき暴挙です。

 主権者国民が今こそ、行動に立ち上がる時でしょう。街頭に出ましょう。
 7月2日午後6時半、近鉄奈良駅前広場に集まりましょう。「戦争する国づくり反対! 安倍内閣打倒! 7・2奈良県民集会」です。空前の大集会にして、安倍内閣打倒・改憲阻止の大運動の第1歩を踏み出しましょう。

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愛国心と誇り

[弁護士 北岡秀晃]

 安倍晋三首相は、欧米諸国との関係の深さを示すフレーズとして、「自由と民主主義、法の支配という価値を共有する」という言葉を多用します。このような価値を共有しない国の存在、中国等を念頭に置いたものと思われますが、果たして安倍政権が君臨する日本には、「民主主義」や「法の支配」はあるのでしょうか。
 安倍内閣は、従来の自民党政権が守り続けてきた憲法の解釈を変えることで集団的自衛権の行使を容認しようとしています。しかし、憲法は、国家権力を縛るものであり、だからこそ最高法規とされています。政権が、勝手に解釈を変えて、都合のいいようにすることが許されるなら、国家権力を縛る憲法はないに等しく、法の支配もありません。

 憲法は、主権者である国民によって制定されたものであり、その改変は国民投票によるという改正規定が定められています。しかし、一内閣の閣議決定で「解釈改憲」がなされるならば、日本には民主主義すらないと言わざるを得ません。

 他方で、安倍首相は、「愛国心」を訴えています。しかし、憲法が何のためにあるかを理解しない政治家が治める国に誇りは持てません。集団的自衛権を認めたいのであれば、きちんと憲法改正の手続を踏むべきであり、これを行わず、姑息にも解釈を変えることで憲法を変えてしまうことがまかり通る国は、「法の支配」が存在する国ではありません。こんな国の国民であることが恥ずかしい限りです。
 解釈改憲を許してはなりません。

散 歩 幻 想

[弁護士 吉田恒俊]

 散歩して無心になると発想が自由になって時に幻想が沸いてくる。チョウチョや小鳥が目の前を飛びながら迎えてくれると嬉しい。声を出して「お早う!」と言う。
 6月に入ってもまだウグイスが鳴いている。ところがうまく「ホーホケキョ」でなく、「ホーホケチョビ!」と鳴く。「ケ」の音が高くなく低くて、最後の「ビ」が尻上がりに高い。自宅でも散歩していても同じなので、同じ鳥だろうと思う。縄張りがあるから他のウグイスが入ってこられないのか、今年はまともなウグイスは聞けなかった。

 いつもきれいに花を飾って掃除の行き届いたお地蔵さんがある。旧村の人たちに長年大切に守られている。最近は一礼をして通ることとしている。その後ろに大きな桜の木が1本祠(ほこら)を守るように立っている。今は葉が生い茂っているが、4月は花が満開となってまことに美事であった。そこを通ると今も満開の桜に覆われた姿がよみがえる。古代から花と言えば桜、わずか2週間くらいの花のイメージを1年間抱きつづけて日本人は生活をしてきたのではなかろうか。今以上に毎日桜の木の下を歩いて通ったに違いない人々が、幸不幸・苦楽をともにしてきたのが桜であった。

 ところで、先日自宅ひさしの下に白い野良猫が寝そべっていてじっとこちらを見ているのに気付く。私は、「うちのカミさんは猫が嫌いだからよそに行って!」とお願いする。白猫は仕方がないという風に、むっくりと起き上ってゆっくりと立ち去っていった。ところが、今朝もまた庭を歩いてこちらに向かってくるではないか。また立ち去るようにお願いすると、しばらく考えていたがそのまま引き返していった。言葉は分かるようである。分かるならもう来ないでほしい。
 以上「幻想」という表題は看板に偽りあり、だったかもしれません。

「国富」とは何か

[弁護士 冨島淳]

 今回は珍しく随分長いですが、ほとんどコピペです。
 2014年5月21日、福井地方裁判所において、大飯原子力発電所の稼働差止めを求める裁判の判決があり、裁判所は、大飯原発3号機及び4号機の稼働差止めを認める判決を言い渡しました。

 この判決には、注目すべき点がいくつもあります。ごく簡単にですが、以下で分析してみたいと思います。
 まず、判決は冒頭で「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。」として、「人格権」の重要性を明言し、人格権に基づく差止めの請求を認めました。さらに、「福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない。」こと等に触れています。

 その上で、「原子力発電所に求められるべき安全性、信頼性は極めて高度なものでなければならず、万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置がとられなければならない。」「本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきである。」との判断基準が導かれました。原発の危険性に鑑み、「万が一」でも事故の危険性が存在する場合は稼働を認めないとすべきだということですから、極めて厳しくその安全性について審査を及ぼそうとする姿勢が伺えます。これまでの裁判所が、政策的問題の関係する事象について多くの場合で判断を避けてきた歴史をも踏まえると、裁判所の職責を正面から受け止めた判断といえるのではないでしょうか。

 そして、大飯原発の現在の安全性について、冷却機能の維持や地震への想定等を検討した上で、「国民の生存を基礎とする人格権を放射性物質の危険から守るという観点からみると、本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ち得る脆弱なものであると認めざるを得ない。」と結論づけました。この安全性の認定に関する部分については、原発推進派からは反論が出されているところです。私は原子力の専門家でもなければ、この裁判に関する証拠書類等を見たわけでもないので、この点に関する批評をする資格はないかもしれません。しかし、少なくとも現在の時点で、「万が一にも事故が再び起こることはない」という状態であるとは思えないというのが、正直なところです。

 最後に、判決は「被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」と述べています。

 裁判所がここまで踏み込んだ判決をしたことに正直言って驚きました。しかし、このような日本という国の行く末を決めることとなるような重要な裁判において、「国富」とは何かということまで真剣に考えを巡らせることも、法律の解釈と同様、あるいはそれ以上に重要なことなのだろうと思います。今後も、他の裁判所や上級審での審理が続くことになろうかと思いますが、裁判所には引き続き「国富」とは何かという視点を持ち続けて欲しいと思った次第です。