「国富」とは何か

[弁護士 冨島淳]

 今回は珍しく随分長いですが、ほとんどコピペです。
 2014年5月21日、福井地方裁判所において、大飯原子力発電所の稼働差止めを求める裁判の判決があり、裁判所は、大飯原発3号機及び4号機の稼働差止めを認める判決を言い渡しました。

 この判決には、注目すべき点がいくつもあります。ごく簡単にですが、以下で分析してみたいと思います。
 まず、判決は冒頭で「個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。」として、「人格権」の重要性を明言し、人格権に基づく差止めの請求を認めました。さらに、「福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない。」こと等に触れています。

 その上で、「原子力発電所に求められるべき安全性、信頼性は極めて高度なものでなければならず、万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置がとられなければならない。」「本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきである。」との判断基準が導かれました。原発の危険性に鑑み、「万が一」でも事故の危険性が存在する場合は稼働を認めないとすべきだということですから、極めて厳しくその安全性について審査を及ぼそうとする姿勢が伺えます。これまでの裁判所が、政策的問題の関係する事象について多くの場合で判断を避けてきた歴史をも踏まえると、裁判所の職責を正面から受け止めた判断といえるのではないでしょうか。

 そして、大飯原発の現在の安全性について、冷却機能の維持や地震への想定等を検討した上で、「国民の生存を基礎とする人格権を放射性物質の危険から守るという観点からみると、本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ち得る脆弱なものであると認めざるを得ない。」と結論づけました。この安全性の認定に関する部分については、原発推進派からは反論が出されているところです。私は原子力の専門家でもなければ、この裁判に関する証拠書類等を見たわけでもないので、この点に関する批評をする資格はないかもしれません。しかし、少なくとも現在の時点で、「万が一にも事故が再び起こることはない」という状態であるとは思えないというのが、正直なところです。

 最後に、判決は「被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」と述べています。

 裁判所がここまで踏み込んだ判決をしたことに正直言って驚きました。しかし、このような日本という国の行く末を決めることとなるような重要な裁判において、「国富」とは何かということまで真剣に考えを巡らせることも、法律の解釈と同様、あるいはそれ以上に重要なことなのだろうと思います。今後も、他の裁判所や上級審での審理が続くことになろうかと思いますが、裁判所には引き続き「国富」とは何かという視点を持ち続けて欲しいと思った次第です。

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