〔弁護士 吉田恒俊〕
○南三陸のお話
去る10月19日~20日、宮城県南三陸町と石巻に行ってきました。東日本大震災が2011年(平成23年)3月11日(金)に発生して約3年半が経ちましたが、私が被災地を訪れたのは初めてです。まずは、母親が被災者で遺体も出てこないという55歳くらいの女性ガイドさんの案内で、南三陸町に向かいました。同町は人口1万7000人のうち、死者行方不明者789人で、町の建物5400軒の内6割を超える3311軒が流されたそうです。
震災の時に2階まで津波が押し寄せて被害に遭った「ホテル観洋」で、地元の区長さんがボランティアガイドとして乗ってくれました。ホテルの女将さんは、600人の被災者を受け入れ、衣食住を提供し続けたた評判の人です。
バスは町内をほぼ一周しました。女教師の機転で、全校生徒が高台に非難して難を逃れたという小学校は、土を盛り上げ中でした。さらに廃校のような中学校舎から町と湾全体を一望でき、18メートルもの大津波が来る様子を覗うことができました。
20年保存が決まった3階建ての防災対策庁舎は、鉄骨だけがむき出しで、見るも無惨なありさまでした。最後まで住民に避難を呼びかけた女子職員とそれを引き継いだ男性職員を含め、職員や住民合わせて41人がここで亡くなったのです。地上12メートルの屋上に逃れた町長はじめ多数の職員らに対し、津波はさらに2メートル以上襲ってきたのです。数度に亘る津波に飲まれ、鉄柱に食らいついて助かったのはわずか10名でした。私は、ただ防災庁舎の前方に置かれている慰霊施設のお地蔵さんの前で手を合わせるばかりでした。
復興をめざす「さんさん商店街」で、ホタテ貝と蛸を自宅に送りましたが、大変おいしかったです。この蛸で何年ぶりかのたこ焼きを夕食代わりに焼いて、妻と食べました。家庭のたこ焼きは、蛸や生姜の外、キャベツ、ネギ、とろろ昆布など、具を沢山入れるので、買ったものと趣が異なってまた別の味がしていいものです。
ホテル観洋の2階にある露天風呂は太平洋に面した絶景と言えるところですが、そこへ津波が海から押し寄せ、高さはさらに2メートルを超えたのです。目の前の立ち木の皮が剥がれているので分かりました。想像するだに壮絶な感じがしました。
○石巻のお話
翌朝は月曜日だというのに沢山の宿泊客で、食堂は混乱していました。私たちのバスはホテルの女将さんに見送られて、石巻市に向かいました。石巻市は漁港を擁する市中心部(人口11万人余り)の高台を除くほぼ全域が津波に襲われたことで、このエリアだけで2038人が死亡し、377人の行方不明者を出し、石巻市全体(全人口約16万2千人)では死者数:3,282名、不明者:699人という大きな被害を受けました。
バスは石巻駅の南方にある人家が密集していた海岸沿いを通りましたが、見渡す限り海岸から山の麓まで津波が押し寄せ、火災も発生し、家屋が流された様子を覗いました。車窓から見る限り、人家もかなり建っていましたが、今だに沢山の空き地があり、復興はまだまだという感じでした。海岸沿いに防波堤を兼ねた大きな道路ができ、あちこちに被災地のかさ上げ作業が進んでいるのは南三陸と同じでした。復興事業は遅れており、被災者の6割以上が、まだ仮設又は民間住宅に入居中とのことでした。
被災地の広大な空き地の中心部で降りて、2メートルを超える津波が押し寄せる感覚を想像しました。そばに石のお地蔵さんの前に慰霊施設が設けられておりました。
○松島の被害
最後は観光で日本三景の一つ松島で、瑞巌寺を見学してから、島巡りをしました。曇っていて大したことはなく、逆に船の排気ガスが臭くて困りました。海岸べりには高さ2メートルくらいの黒い石で出来た慰霊記念碑が立っており、後ろには、約1.7メートルのところに押し寄せた津波の高さが刻んでありました。町内の死者は2人で、家屋被害も床上浸水程度で、被害が少なかったことが特徴です。松島一帯は遠浅の多島海という松島湾の地勢が津波の威力を減衰させたと見られ、周辺地域との比較の上では軽微と言える被害に留まったそうです。
福島原発まで足を伸ばせませんでしたが、私にとって、大変有意義な旅行でした。